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与えなさい。そうすれば、自分も与えられます。人々は量りをよくして、押しつけ、揺すり入れ、あふれるまでにして、ふところに入れてくれるでしょう。あなたがたは、人を量る量りで、自分も量り返してもらうからです。(ルカ6章より)

新約聖書ルカ6章にある「人を量る量りで、自分も量り返してもらう」というフレーズが好きです。私は個人的に「人を量る量りで、あなたも量られる」と記憶しています。

他人のことにケチをつけたり、ことさらにあら探ししたり、さばいたりせず、寛容に振る舞うことも「量りをよくする」ことに通じるかもしれない。

「自分が他人を裁く基準と同じ基準で、自分が裁かれる」というのは、なるほどというか、痛いというか。

さっきのはルカ6:38でしたが、もう一つ前の6:37には直接的に書いてありました。「さばいてはいけません。そうすれば、自分もさばかれません。人を罪に定めてはいけません。そうすれば、自分も罪に定められません。赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます。」(ルカ6:37)

「ゆるしなさい。そうすれば、自分もゆるされます」という聖書の言葉は、深い味わいを持った言葉であると思います。

「ゆるしなさい」という指示は、恨む相手がいる人にとっては極めて腹立たしい言葉です。「あんな人を、あいつをゆるしなさいというのか!」という思いがわくからです。でも、同じ基準で自分が裁かれるとしたら?

「ゆるしなさい。そうすれば自分もゆるされます」という言葉は、「私はゆるしを乞う必要なんてない。私には裁かれるような点は何もないからだ」と思う人には、なんの意味も持たないかもしれない。

「与えること・与えられること」も、「裁くこと・裁かれること」も、自分の他人に対する基準がそのまま自分に適用される。というのは本当だろうか。私にはとても「公正」なことに感じられる。そして公正さは必ずしも自分に有利になるわけではない。公正だから。

自分が他人を量る量りで自分が量られる。自分が他人を裁く基準で自分が裁かれる。ここには、自分が人生をより良く生きる秘密の一つが隠されていると思う。

どのような量りで他人を量るのか。どのような基準で他人を裁くのか。それは自分が選べる。ここが素晴らしいと思う。自分が選んだその量りが、その基準が、自分にも適用されるのだ。

ルカ6章を読みながら、そんなことを思っていた。

2017-03-19 (Sun) 21:17:57