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たくさんのことを知っている人がいる。
ほんの少しのことしか知らない人がいる。

という二つの文を読むだけで、読者の心にはいろんな思いが浮かぶ。
「わたしは少ししか知らない」と思ったり、
「ふつうに考えるとたくさんのことを知っている人の方がいいんだけど、実際には数が問題じゃないんだな」と思ったりする。

たった二つの文を読むだけで、読者の心は多様な思いで満たされる。
二つの文を成り立たせているのは「知っていることの数」である。ある人は「たくさん」知っていて、別の人は「少し」しか知らない。つまりこの時点で判断基準が示されていることになる。

しかしながら、そもそもこの判断基準自体が恣意的なものである。書き手はこれを切り口にして何かを語ろうとする。読者がどちらか片方に与することを期待して。読者が思ったのと同じ方向をpromoteすることもできるし、読者が思ったことを(適切な理由を付けて)ひっくり返すこともできる。

何を語るかだけが書き手の仕事ではなく、どのような切り口で語るかも大事な仕事である。そこには書き手の恣意性が入り込み、そこにはどうしても偏りが生じる。でもそれはしかたがない。完全な対称性を保っていては切ることはできず、分けることもできず、分かることもできないから。

完全な切り口は存在せず、完全な文章は存在しない。まずは自分から、思い切ってバランスを崩さないと、文章は書けない。それはちょうど、バランスを崩さないと歩き出せないのに似ている。あるいはスキー場の上で、バランスを崩さないと滑り出せないのに似ている。

山頂から降りるには無数のルートがあるが、最初にやることは、自分のバランスを崩すことだ。どのルートが最適かを考えるのは意味がない。まずバランスを崩し、降りてみることが大切だ。

以上が、文章についての文章、すなわちメタ文章である。

「たくさんのことを知っている人」と「少ししか知らない人」の話はどうなったの?

え? まだわからない?

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2017-07-08 (Sat) 13:32:06