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「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい。」(新約聖書ヨハネ8章より) https://t.co/WpDNU5EfPN

これは、想像力の問題だと思っています。聖書物語に書かれた記事を寓話として読むのはいい。でも、自分自身をどの登場人物だと考えるか。多くの人は、自分を「石を投げる側」だと考える。でも私は、どうしても「姦淫をした女」の側だと自分のことを想像してしまう。姦淫をしているわけではないのだが。

公的な組織や、公的な立場にいる人の不始末を批判してはいけない、と言いたいのではない。むしろ逆だ。ただその際に「自分は誰の何を批判(非難)しているのか?」という視点は忘れないようにしたい。

「そのroleにある人がそういうactionやbehaviorをするのは正しくない」という批判は正しい。だが、「あなたという人格は悪だ」と断じるのは正しくない。そのように結城はよく思う。もう少し正確にいうなら「私には、あなたを悪と断じる資格はない」と思う。

自分が私怨で非難しているかどうかチェックする方法があります。それは「自分が非難している相手の行為が実は誤解だったとわかった」と想像したときの自分の気持ちを観察すればいい。「ああよかった。あいつはそこまで悪いやつではなかった」と安堵するか、「チッ、そんなはずは絶対にない」と思うか。

つまり「何が示されようが相手を悪だと思いたい気持ち」を自分が抱いているかどうか。役割ではなく責任ではなく相応の償いではなく、相手の人格と全財産と無限の謝罪を相手に求めているかどうか。

相手がいくら誤ってもゆるせないかどうか。相手がどんなによいことをしてもゆるせないかどうか。全財産をあなたに与え、命までもあなたに与えてもゆるせないかどうか。存在が消えてしまっても、ゆるせないかどうか。それは、実は、考える価値がある問題だと思っています。

結城のところにはここ二十年くらいに無数のお便りがやってきます。そのうちの少なからぬ数が、親や配偶者や子供に対する恨み言です。そしてさらに、少なからぬ数が、すでに死んだ相手への恨み節です。いいですか。すでに死んでいてもう何もできない。でもその人を恨み続ける人生がある。とてもこわい。

ひどいことをされたから相手を恨むというのはとても自然なことです。そんな人を非難しているのではありません。ひどいことをされた、いくら謝ってもゆるさない、いくら金を積んでもゆるさない、いくら苦しんでもゆるさない、たとえ死んでもゆるさない、ああ、死んだのね。いい気味だ。でもゆるさない…

相手が謝っても、金を積んでも、苦しんでも、死んでもゆるさないという気持ちがありうるのは理解できます。ところで、あいつが死んで何年経っても、何十年経っても恨み続けるというとき、自分を苦しめているのはいったい「誰」なんだろう。

実は、どこかの時点で、あなたの手元に選択権はあったんじゃないだろうか。相手を「ゆるし」、ゆるすことで、自分を恨みから解放する選択権が。スイッチが手元に存在した瞬間があったんじゃないんだろうか。「OK。これでおわりにしよう。スイッチオフ」というタイミングがあったのではないか。

恨む相手はすでに自分に悪意を示さなくなった。それどころか相手は自分の人生ともう無関係。ていうかもうこの世にいない。なのに、自分は、誰に対して拳を振り上げて、自分を不幸にしているんだろうか。……結城にやってくるメールで、少なからずそこに混乱のある人がいます。一人ではない。

途中までは正当な怒りだった。正当な憤りだった。でも、どこかの時点で、怒りも憤りも、恨む相手ではなく自分自身を傷つけまくっている。そんな人が少なくはないのです。とても、とてもとても悲しいことです。本人に害をなす人はもうこの世にいないのに、その人の代理人のように、自分自身に害をなす。

選択肢は、常に、自分の前にある。他の誰にも相談しなくてもわかる。自分が選ぶだけの話。他の人は何を選ぶかはわからない。でも私は「これ」を選択する。自分がこれからの人生を幸福に生きていくために。自分は、選択権を行使する。私は「これ」を自分の自由意思で選択する。

結城は、他ならぬ「あなた」が、よい選択をなさることを祈っています。決して短くはないこの人生……残りの人生を充実して過ごすことを祈っています。神さまの祝福が豊かにありますように。

>あなたが石を投げている相手は誰?
http://rentwi.textfile.org/?889724137060552705

2017-07-25 (Tue) 14:48:59